50周年記念誌より(3)

岩高生のあしあと
50周年記念誌より 3

  • 平成21年3月15日 管理教室棟竣工

    昭和39年に建てられ、以来何回かにわたり造築されてきた本校校舎も老朽化し、教育活動に支障をきたす恐れがでてきた。そこで県教育委員会とも検討した結果、新校舎に建て替えることとなった。

    グランドにプレハブ校舎が建てられ、新校舎完成までそこで授業を受けることとなった。

    そしていよいよ校舎内の荷物をプレハブ校舎へと引越作業が始まった。

    平成20(2008)年2月12日、プレハブ校舎に引っ越した後、中田裕同窓会長を招き「お別れ会」が開かれた。会長は「入学した時は、校舎の建築中でみんな1緒になって学校をつくった。友情と信頼と団結が生まれた。」「独立自尊で学び自分に誇りをもって生きてほしい」と挨拶された。

    「お別れ会」閉会の後、生徒教職員全員が取り壊される旧校舎前に集まり、全員で集合写真を撮って名残を惜しんだ。

  • 突然の激しい揺れ  被災、不自由な学校生活

    それまでは平穏な時間が流れていた。いつもの学校生活だった。あと30分も過ぎれば、掃除をしてホームルーム。ある者は帰宅、ある者は部活と、普段通りの1日のはずだった。

    平成23(2011)年3月11日午後2時46分、ガタガタと校舎が揺れはじめる。『いつもの地震か、すぐに止むだろう』と思った瞬間、突然激しい揺れが襲ってきた。教室では、棚の本が落ち、コンピュータや暖房器具も動き出す。今まで経験したことのない地震だ。女子生徒の中には泣き出す者もでる。「机の下へ!」先生の指示で机の下に潜り込む。目をつぶり、早く終われと念じていた。どれくらい時間が経ったろう。揺れが収まり、静寂が学校を包んでいた。

    「全員前庭へ待避」階段から先生の声。校舎内、体育館にいた者全員が前庭へと移動、クラスごとに整然と整列した。

    担任の先生が生徒を確認した。幸い、1人のけが人もなかった。その後、校長の話。「授業はこれで終わり。家の人に迎えに来てもらいなさい」

    連絡したくても携帯は通じない。学校の電話もだめ。やっとメールだけが使えた。ふと教室を見ると電気も来てない。

    家はどうなってるんだろう。お母さんやお父さんはどうしてるだろう。弟は?おじいちゃんは?連絡がつくまで気が気ではない。生徒たちに不安が広がる。水戸線も止まっているという。幸い、体育館脇の公衆電話、学校の電話は通じる。生徒たちは列をなして肉親と連絡をとる。

    やがて、ぽつりぽつりと迎えの車が校門から入ってきて、生徒を乗せていく。祖父母が迎えに来る者、同じ方面の友達に同乗していく者。徐々に迎えを待つ生徒が減っていき、最後の1人が学校を出た時は午後10時になっていた。

     11日は金曜日だった。翌週から学校は自宅待機となる。生徒たちが登校することになるのは、翌4月11日、1ヶ月ぶりの学校再開となる。

      学校が始まっても、地震以前の学校生活ではない。体育館は天井に亀裂が入り使用不能、特別棟への通路もひび割れ通行できない。体育は屋外のみ。バレーやバスケット、バドミントンなど体育館を使用していた部活動は岩瀬小学校体育館を借用したり、他校に行き一緒に練習したりと、ジプシー生活となった。

    幸いにして本館、特別教室棟は揺れによって書物や備品が散乱はしたが、使用には支障がなかった。始業式、入学式、PTA総会など従来体育館で行っていた行事は本館2階の生理微生物室、看護演習室を使用したり、放送で代替したりした。全学年が一堂に会する集会が開けない。唯一、新入生歓迎綱引き大会だけだった。そのため、震災後に入学した1年生は枝川校長先生が立哨指導をしていても、校長先生とは分からない生徒もいた。

    未だ仮設住宅で生活しておられる東北の方々には申し訳ないが、正常な学校活動が行えるようになったのは、その年12月22日、2学期終業式を修理が終えた体育館で行った後、実に285日ぶりの体育館使用であった。



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