50周年記念誌より(1)

岩高生のあしあと
50周年記念誌より 1

    • 昭和37年~昭和38年

      • 前史 「岩瀬町に県立高校を!」それは地元の悲願でした。

        創立記念碑
        ▲設立の労苦を今に伝える創立記念碑

        昭和30年代、日本の高校進学率が伸びゆく中、旧岩瀬町(現桜川市岩瀬)は近隣に県立高校がなかった。地元の中学卒業生徒で高校進学希望者は、東の水戸・笠間地区、西の下館・結城地区の県立高校に通うしかなかった。

        そのため、岩瀬町への高校誘致は地元教育関係者のみならず、地域住民の悲願でもあった。

        昭和37(1962)年、町長・県会議員・地元有識者を中心に岩瀬高等学校誘致運動を開始し、同年5月、茨城県立岩瀬高等学校誘致期成会を結成した。

        当時、県立高校新設に際しては、地元負担として学校用地と建設資金の一部を県に納入しなければならなかった。そこで、岩瀬町では一般会計から4,400万円、隣接市町村からの援助や寄付金1,000万円が準備された。そして、期成会のご努力もあり、地元町内各戸の寄付1,000万円、さらに篤志者よりの寄付600万円が集まり、総計7,000万円余りが納入できた。

        一方、用地に関しては、元岩瀬、岩瀬東区の地権者の方々に提供を懇願し、そのご厚意により岩瀬高校敷地予定地が用意できた。しかし、そこは森林や田畑であり、学校を建てるには多大の資金・労力が必要であった。ここでも、自衛隊勝田施設学校の特別なご配慮により、校庭として整備が整った。

        本校敷地予定地
        ▲多くの人たちのご厚意で得られた
        本校敷地予定地〔昭和38年〕

        こうして、県立高校受け入れの体制が整ったが、県では建設案が決定されなかった。そこで、期成会委員が3班に分かれ、県会議員と高校審議会委員全員を訪ね、岩瀬高校設立を陳情誓願した。夏季炎天下の中、全県をまわった期成会の苦労は並大抵ではなかった。

        こうして、昭和38(1963)年3月、茨城県立岩瀬高等学校建設の議案は県議会に提出され、同22日議決されるにいたった。


    • 昭和38年~昭和39年

      • いよいよ現在の地で本校の歴史が始まる

        第一期工事
        ▲第一期工事

        昭和38(1963)年、岩瀬高校の開設が決定されると、敷地予定地に杭が落とされ、工事が始まった。第1期工事、普通教室6室・職員室・校長室・事務室が入る校舎の工事である。

        第1期工事の基礎工事が終了した昭和38(1963)年、12月9日に正木千尋先生・市毛昭3先生・富田善一主査の3名が岩瀬高校開設準備委員に任命された。3名は同年新設予定の石岡商業高校、波崎高校の準備委員とともに県立図書館の一室を借り、協議し、県教育庁や岩瀬町役場と連絡を取りながら開校準備に奔走した。

        やがて下館一高図書館の片隅を借り、開校に向けて体制作りの執務がおこなわれる。新築校舎の施設・設備、カリキュラム・教科書、校務分掌組織、制服や校章等々、現在に続く岩瀬高校の青写真が作られたのである。

        昭和39(1964)年4月1日、茨城県立岩瀬高等学校が開校。初代学校長に白石浪男先生ほか本校職員に16名が任命される。同4月10日、第1回生224名の入学式が盛大に挙行された。

        4月から5月上旬の、生徒たちにとって授業日の約1ヶ月間は、岩瀬小学校を間借りしての学校生活であった。職員は昇降口廊下の片隅で執務 したり、授業も仮教室、体育は仮校舎東側の空地と不便な学校活動であった。

      • りっぱにしといてやらなければ、先輩の資格ないと思う
        岩瀬高校のグランドには 先輩達の汗がしみこんでいる

        4月末、新校舎(第1期工事分)が完成、5月13日に岩瀬小学校から引っ越しをおこなった。

        この日を待ちわびていた生徒達は運搬作業の手伝いを行う。小学校の仮校舎から机・椅子を町が用意したトラックに積み込み、新校舎では荷台から降ろして教室へ搬入する。

        この引越しの日が本校の創立記念日となっている。

        本校舎(新校舎)に入れたといっても喜んでばかりはいられなかった。体育館や音楽室など足りない教室はあったし、校庭も整地されていない。そのため、建築工事が継続して行われており、騒音にも悩まされる。図書館は校長室前の廊下に書架を置いて代用するなど、不自由な学校生活の連続であった。

        そんな中、岩瀬高校の生徒達は学校の基礎作りのため、労力の提供を惜しまなかった。校庭の整地や植樹・芝生はりなど、泥と汗にまみれ意欲的に働いた。

        特にグランドは、「やっと整地され、平らになった程度で、また、粘土層が表面に浮かび出たような状態で雨でも降ろうものならベタベタ、ツルツル、乾燥するとカチン、カチンで唐鍬さえもなかなかうけつけないといった有様ですから、これを1応グランド らしいものにするため何百台という砂や砕石、それに労力の投入量は経費に見積ると莫大なものでした。」 (創立十周年記念誌 市毛先生「10年一昔」より抜粋)

        引越-小学校にてトラックを待つ
        新校舎に到着
        教室へ運び込む生徒達
        奉仕作業でグランド整備を手伝う岩高生 トラックには岩瀬町役場の文字がみえる

      • 屋上に生徒、ドア・窓をはずした教室が式場  新設校ならではの開校式挙行

        受付でお手伝いをする女子生徒
        ▲受付でお手伝いを
        する女子生徒

        昭和39(1964)年、11月14日、岩瀬町の絶大な支援のもと、本校の開校式が県との共催で開催される。

        体育館がないため、式場は窓とドアをはずした新校舎2階とし、生徒たちは屋上に整列して参加した。参列者は、県と町あわせて460名余の招待者・保護者と、盛大に執り行われた。

        「(略)左右の教室の壁に遮られてその付近の人は、壇上の人の顔も見えず隣室の話に耳をそばだてているような状態だったと思いますが、こんなことも新設校ならでは味わえぬよい思い出になっている(略)」創立10周年記念誌 市毛先生 「10年一昔」より抜粋)

        式典では、県立岩瀬高等学校誘致期成会長・県会議員の大和田義一氏が、岩瀬高校開校にこぎつけるまでの期成会の労苦を感慨深く話され、PTA会長でもある中田清一岩瀬町長は、これまで以上の町の支援を約束され、盛大のうちに閉式した。



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